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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

新開 寛山(しんかい かんざん、1912年4月21日[1] - 2011年[2])は、日本の陶芸家京都京都市出身 [3]清水六兵衛に師事し、日展を中心に活動した。日本芸術院賞受賞者[1][4]。本名は邦太郎[1][5]

略歴

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代々陶業の家に生まれ、祖父に三代清風与平、叔父に四代清風与平を持つ[5]京都市立美術工芸学校図案科に入学し、並行して実家の工房の職人から技術指導を行ってもらっていた[6]。卒業後、1930年に第11回帝展で初入選を果たした[1][5]

その後、1932年から五代清水六兵衛に師事し、戦前は染付を主体とする作品で帝展・新文展に出品した[1][5]1943年に出兵し中国に送られ、のちにシベリア抑留となった[7]。シベリアでは、メーデーのプラカードにウラジーミル・レーニンヨシフ・スターリンを書かされたことをきっかけに、絵ばかりを書かされていた[7]

1948年に帰国すると、陶芸の材料が入手しづらかったため、羽子板の絵付けや当時流行していたベティ・ブープの漫画を描くなどしていた[8]。その後、妻から陶芸の行うよう説得され、妻が大阪や神戸まで陶芸作品を売り歩いてくれ生活を支えてくれた[8]。戦後の創作活動ではは陶土の研究を進め、日展を中心に陶器作品を発表していった[5]

少なくとも2008年の96歳時点では創作活動を行っていたが[6]2011年に亡くなった[2]

活動

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1951年の第7回日展で特選を受賞し、1958年には日展会員に推挙された[1][5]1974年には「群韻花瓶」で日展文部大臣賞を受賞した[5]

1980年、前年の作品「玄鳥」に対して日本芸術院賞を受賞した[4][1]。その後、1981年に日展理事、1992年に日展参事となった[1]

作風

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初期には染付など磁器作品が中心であったが、戦後には陶器へ比重を移し、魚・鳥など動物の主題を、鉄釉・彩色・釘彫・陶彫・象嵌など多様な技法で表現した[5]。動物の絵をつけることにより、花瓶に活けた花の下で動物たちが遊んでいる風景となりより自然な風景となると語っていた[9]

栄典

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1984年勲四等旭日小綬章1989年に京都府文化賞特別功労賞を受けた[5]

脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 新開寛山”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2026年3月22日閲覧。
  2. 1 2 新開寛山 作家データ&作品一覧 」京都国立近代美術館
  3. 日本芸術院要覧 昭和55年度」国立国会図書館デジタルコレクション
  4. 1 2 昭和54年度日本芸術院賞決定”. 美術界年史. 東京文化財研究所. 2026年3月22日閲覧。
  5. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 新開寛山”. 古美術こもれび. 2026年3月22日閲覧。
  6. 1 2 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、10頁。
  7. 1 2 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、13頁。
  8. 1 2 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、14頁。
  9. 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、11頁。