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| 千年紀: | 2千年紀 |
|---|---|
| 世紀: | 17世紀 - 18世紀 - 19世紀 |
| 十年紀: | 1720年代 1730年代 1740年代 1750年代 1760年代 |
| 年: | 1739年 1740年 1741年 1742年 1743年 1744年 1745年 |

1742年(1742 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
他の紀年法
[編集]カレンダー
[編集]できごと
[編集]
- イタリア -
- スウェーデン -
- カール・フォン・リンネがウプサラ大学の植物学教授に就任[1]。
- アンデルス・セルシウスが、スウェーデン王立科学アカデミーに投稿した論文のなかで、実用的温度計を提唱[3][1]。これが現在のセルシウス度の基となった。
- スペイン - 外国製の綿製品に対する輸入禁止令を撤廃、経済自由化政策へと転換する[4]。
グレートブリテン王国
『ジョセフ・アンドリュース』挿絵 ブービー夫人に言い寄られる主人公ジョセフ・アンドリュース トマス・ローランドソン筆 1792年 メトロポリタン美術館蔵 - イングランド -
- ウォルポール時代の終了にともない言論思想の自由伸長。その反面、新聞工作の弊風がはびこる[2]。
- チャールズ・ジャーヴァスによる英訳版『ドン・キホーテ』が、ジャーヴァスの死後3年経ってから出版。出版社のミスで著者名が「Charles Jervas」ではなく「Charles Jarvis」とされたことで『ジャービス版ドン・キホーテ』と呼ばれる。史上最も原文に忠実な英語版として高く評価された。
- ヘンリー・フィールディングが小説『ジョゼフ・アンドリュース』を発表[5]。
- 詩人のエドワード・ヤング が「嘆き――生と死と永生についての夜想詩」(英: Night Thoughts on Life, Death and Immortality)を著す(-1745年)[5]。
- バーミンガムとノーサンプトンで綿紡工場の開設[1][5]。
- インド産の綿による綿布生産でランカシャー繊維産業伸びる[5]。
- ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニのオペラ序曲「ト長調のシンフォニア」が上演。室内交響曲に移行[1]。
ロンドン郊外のチェルシーにラニラ・ガーデン開業。円形劇場がにぎわう[1]。
ヴェドゥータ「ラニラのロタンダの内部 」 カナレット筆 1754年 ナショナル・ギャラリー蔵
- スコットランド -
- エディンバラで世界初のスケートクラブ、エディンバラ・スケーティング・クラブが結成。
- ロバート・フォウリスとその兄弟がエディンバラで印刷所を開業[2]。
- コリン・マクローリンが『導関数論』(または『流率論』、"Treatise on Fluxions")を出版[1]。
- ガーンジー - ダニエル・ル・ペリーが、父であるニコラス・ル・ペリーの跡を継いでサーク領主となる。
- イングランド -
- ロシア -
- 宮廷でロプーヒナ陰謀事件起こる。
- イルクーツクに日本航海学校創立[6]。
- ロシア・スウェーデン戦争において、フィンランドを占領。フィンランド王国 (1742年)が一時的に成立。
- フランス -

『水浴のディアナ』 フランソワ・ブーシェ筆 - フランソワ・ブーシェが『水浴のディアナ』『秋』を完成[1]。同年、『水浴のディアナ』をサロン・ド・パリに出品する。
- ジャン=ジャック・ルソーがドゥニ・ディドロと知己を得る[7]。
- リヨンでエメ・ド・ラ・ロッシュ(Aimé de La Roche )が売り家、失せ物、その他の案内広告紙を出す[2]。
- ジャン・ルセ・ド・ミッシイが醜聞紙「L'Epilogueuer」を発刊[2]。
- シャロン=アン=シャンパーニュでフランス語版『寓話集』(パエドルス著、"Les Fables de Phédre")出る[2]。
- 医師ダブランクールが『死の不確実さと早すぎる屍体防腐処理、埋葬についての論説』を出版し、大反響をうける。同書は以後版を重ね、英語・ドイツ語・スウェーデン語に訳される[5]。
- アンジュー地方で農民蜂起[4]。
- ノルウェーの街モルデが勅許を得る。
- ドイツ -
- アイゼナハにアイゼナハ宮殿(独: Stadtschloss)が建設。
- バヴァリア、ニュルンベルクにフリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクが開設される。
- 神学者のヨハン・アルブレヒト・ベンゲルが『新約聖書注解書グノーモン』(羅: Gnomon Novi Testamenti)を著す[7]。
- ヨハン・ヤーコプ・コルン「Schlesische Zeitung」の前身となる新聞を発刊[8]。週3回発行。ベルリン、ウィーン、ハンブルクの新聞を多く転載した。
- ケーニヒスベルクの歴史家で神学者・哲学者のフリードリヒ・ザムエル・ボックが「Deutschen Äsop」(-1743年)および「Pilgrim」(-1744年)刊行[8]。
- ブレスラウ福音主義上級教会幹事会の活動家、ヨハン・フリードリヒ・ブルクが地方向け讃美歌集を編纂[9]。
- ヨハン・ゼバスティアン・バッハがゴルトベルク変奏曲を出版[1]。
- ジョヴァンニ・マルティーニ作曲による「カナリー群島の興行師」(ピエトロ・メタスタージオ脚本)初演[1]。

『オーデと歌』表紙 ハンブルクで出版 - ロココ詩人フリードリヒ・フォン・ハーゲドルンが『オーデと歌』(独: Sammlung neuer Oden und Lieder)を出版(~1752年)[1]。

『1742年パリのサイード・メフメト・エフェンディ』サイード・パシャの肖像画 シャルル=アントワーヌ・コワペル筆 - オスマン帝国 - イルミセキザード・メフメト・サイード・パシャが、パリにオスマン帝国の大使として赴任[10]。
- 清 -
- 日本 -
- 幕府、林信充らに越後の孝女についての伝記を刊行させる[9]。
- 幕府が富士講の禁令出す[7]。
- 青木昆陽が『諸州古文書』を集成する[13]。
- 勧進相撲が全面解禁[要出典]。
- このころ上方で読本が盛ん[1]。
- 荷田在満の歌論、『国歌八論』成立[1]。
- 二代目市川海老蔵と初代尾上菊五郎が江戸に下り、市村座に出る。
- 与謝蕪村、師の早野巴人の死に伴い江戸を出る。その後10年ほどにわたり北関東・東北を遊歴する。
- 蔵六園亀世が『雪の旅』を京都の井筒屋から刊行[8]。
- 鳥取藩士、松岡布政が『伯耆民諺記』を執筆[8]。
- 和泉の泉南郡で暴動[15]。
- 福井藩領越前の足羽郡で打ちこわし[15]。
- 琉球王国の石垣島で冨崎観音堂建立[16]。桃林寺の住持徹道、経塚を建てる[16]。
- インド - カルナータカのナワーブ、サフダル・アリー殺害[4]。同地が無政府状態に陥いる。
- 北アメリカ
- スペインが、フロリダ州のセントオーガスティンより南におよそ24キロに位置するマタンサス・インレットに、マタンザス要塞を築く。
ヘンリー・ミューレンバーグの像 フィラデルフィア・ルーテル神学校 - ルーテル教会の牧師・宣教師のヘンリー・ミューレンバーグがペンシルベニア植民地の信徒の求めに従いドイツから渡米、同地に赴く。これにより、彼はアメリカ合衆国におけるルーテル教会の祖となった。
- ウィリアム・ブラットフォードが「The Pennsylvania Journal」紙、ベンジャミン・フランクリンが「A Pocket Almanack」紙、ウィリアム・ナディール(英語: William Nadir)が「Mercurius Non-Anglicanus」紙発刊[5]。
- Boston Evening Post発行トーマス・フリートが、イギリス首相ウォルポールの対スペイン戦争責任を論じて訴追される[5]。
- ベンジャミン・フランクリンが「United Brethren」出版[5]。
- ボストンでトマス・バーナードの『宗教における暴虐と隷従』刊行[5]。
- スペインが、フロリダ州のセントオーガスティンより南におよそ24キロに位置するマタンサス・インレットに、マタンザス要塞を築く。
- ガーナでアシャンティ王国の軍隊がニンゴ(ニングワ)のデンマークの要塞を攻撃[4]。
1月-3月
[編集]- 1月9日 - ロバート・ウォルポールがオーフォード伯爵位を得、第一大蔵卿と財務大臣を辞す。これによってウォルポールはイギリスの首相としての任期を終えた[17]。辞職は前年の総選挙によってホイッグ党が絶対的優位を失い、政権不安定になっていたことによるもの。また、5日後に正式に首相職を退いた時点で、ウォルポールの首相在任期間は20年と314日間であった。これは、イギリスの首相の1期としては史上最長、通算在任日数としても未だ記録を破られていない。初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトン内閣が成立[要出典]。
- 1月14日 -
- 1月15日(寛保2年12月9日) - 敵討:長崎で喜三次と伝十郎兄弟、母の敵である甚太郎を討つ。
- 1月24日 - バイエルン選帝侯カール=アルブレヒトが神聖ローマ帝国皇帝位を得る(カール7世)[3][19]。
- 1月28日? - 庶民院がチッペナム選挙区での不正操作疑惑について採決[20]。これはロバート・ウォルポールに対する不信任決議となり、彼は辞任することになる[21][4]。
→「ロバート・ウォルポール § 退任」も参照
- 2月1日 - オーストリア継承戦争:サルデーニャ王国が、フランス・スペインとの同盟関係を断ち、スペインからロンバルディアを防衛するため、マリア・テレジアと協定を結ぶ[4]。
- 2月11日 - ウォルポールが首相の辞任にともないオーフォード伯となる[4]。
2月12日 -
神聖ローマ皇帝カール7世 彼は1745年に病没し、皇帝の位をマリア・テレジアの夫、フランツ・シュテファンに明け渡すこととなる。 - 第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレットが北部担当国務大臣に就任。以降、彼がカートレット内閣における指導的立場を担うことになる。
- 神聖ローマ皇帝カール7世が、フランクフルトで戴冠式を挙げる[4]。プロイセンの支援による。戴冠はカールの弟でケルン大司教のクレメンス・アウグストが行った。
- オーストリア継承戦争:オーストリア軍、反撃ののちミュンヘン占領[4]。
- 2月15日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:ディートリヒ・フォン・アンハルト=デッサウ指揮下のプロイセン・ザクセン・フランス連合軍が、モラヴィアのイグラウ(現在のイフラヴァ)を占領。フランスとザクセンはこの時点で、両国のプロイセンに対する義務が履行されたことを宣言し、フランス軍は撤退した[22][23]。
- 2月16日 - 初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンがイギリス首相(カートレット内閣)に就任[4]。
- 2月20日(寛保2年1月16日) - 大坂で2代目市川海老蔵、『雷神不動北山櫻』の「毛抜」(歌舞伎)を初演。旧暦7月まで大入りとなった[24]。
- 2月22日 - ヘンリー・フィールディングがロンドンで、ピカレスク小説『ジョゼフ・アンドリュース』を匿名で発表。「初版……(ロンドン市内の)書店に届く[25]」
- 3月1日(寛保2年1月25日) - 陸奥岩瀬郡などの白川藩領7ヶ村で強訴[15]。
- 旧暦2月 - 伊予浮穴郡砥部など40ヶ村で暴動[15]。
- 3月15日 -
- デンマークがフランスとの間に和親条約(Treaty of friendship)を結ぶ。1739年にイギリスと結んだ和親条約が期限切れとなった翌日のことであった[26]。
- ヴェランドリエ兄弟のロッキー山脈探検:ヴェランドリエ兄弟が、フランス国王の名においてサウスダコタの領有を宣言[27]。
- 3月29日 - ポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキがリトアニア大公として、リトアニアの首都ヴィリニュス在住のユダヤ人に対し、ピリエス通りとガルベス通りの両公道以外の市内の居住・転居の自由を認める布告を行う[28]。
- 3月 - 清朝、八旗漢軍の出旗為民(八旗の籍を離れ、一般の民となること)を許し、原籍帰還・外省居住の希望を認める[4]。
4月-6月
[編集]- 4月 -
- 4月6日(寛保2年3月2日) - 桜島噴火[15]。
- 4月13日 - ヘンデル、オラトリオ『メサイア』をダブリン、聖パトリック大聖堂で初演(『もろびとこぞりて』初演[1])。
- 旧暦4月 - 江戸幕府、金銭・六道銭を一緒に埋葬することを禁ずる[16]。
- 5月5日(寛保2年4月1日) - 徳川吉宗のもと、法典『公事方御定書』の下巻、『御定書百箇条』が成り、『公事方御定書』が22年を経て一応の完成をみる(1720年-)[8][4]。これは、司法・警察関連法規・刑法・訴訟法を編纂したもの[24]。量刑の軽さを印象付けないように、本書は非公開とされた[8]。その後も改訂が進められ、宝暦4年(1754年)に最終的な形となった[29]。
- 5月17日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:コトゥジッツの戦い。ボヘミアのコトゥジッツで、フリードリヒ大王のプロイセン軍がオーストリア軍を破る。実質的にはこの戦いが大王が軍指揮官として経験した初めての戦いとなった[30]。
- 5月24日 - オーストリア継承戦争:ザハーイの戦い。ボヘミア南部のザハーイで、フランス軍がオーストリア軍を破る。

キミリの伝道所からスペインの修道士たちを追放するアタワルパ - 5月 - ペルー副王領でフアン・サントス・アタワルパがアタワルパ2世を名乗り、ペルー・アンデス東斜面でスペインの支配に対する抵抗を開始(~1756年)[19]。スペイン軍はこの反乱鎮圧を目指し1742年、1743年、1746年、1750年と長期にわたり軍事行動を起こしたが、アタワルパ2世の捕縛には至らなかった[3]。神父ドミンゴ・ガルシアは、この蜂起についての最初の報告書を同年6月2日に上申している[31][32]。
- 旧暦5月 -
- 6月3日(寛保2年5月1日) - 九州から東北までの日本列島の広い範囲で皆既日食が観測された[34]。

クリスティアン・ゴルトバハがレオンハルト・オイラーに宛てた、1742年6月7日付けの書簡 - 6月7日 - クリスティアン・ゴルトバハが、レオンハルト・オイラーとの書簡のなかで「ゴールドバッハの予想」(全ての2よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる)について初めて言及する[35]。
- 6月11日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:ブレスラウ条約。プロイセンとオーストリアのあいだで仮和約[4]。オーストリアがプロイセンに対するシレジア割譲を約束[19]。
- 6月20日 - イズミルが火事で破壊[36]。
- 6月25日(寛保2年5月23日) - 敵討:陸奥江差郡野手崎村(旧江刺市の一部)で百姓の鈴木善六、29年ぶりに父の敵である百姓・六之助を討つ[15]。
- 6月 - ロシア・スウェーデン戦争:スウェーデン軍、ロシア軍からの反撃を受け、ヘルシンキから撤退[4]。
7月-9月
[編集]- 7月 -
- 7月14日 - ウィリアム・パルトニーが初代バース伯爵に叙勲。
- 7月18日 - ジェンキンスの耳の戦争:ブラッディ・マーシュの戦い。ジョージア植民地で、イギリス軍がマヌエル・デ・モンティアノ率いるスペイン軍を撃退。
- 7月28日 - オーストリア継承戦争、第一次シュレージエン戦争:マリア・テレジアとフリードリヒ2世がベルリン和約を結び、第一次シュレージエン戦争は終了(1740年-)[4][3][3]。プロイセンはシュレジーエンの大部分を獲得、ポーランドとともに反オーストリア同盟から離脱した[4]。
- 8月17日 -
- ジェンキンスの耳の戦争:フランス兵10名を伴ったフレンチ領ルイジアナのチョクトー族がトンビグビ川を渡り、ジョージア植民地にあるチカソー族の集落を略奪する[37]。以後3日の間に、チョクトー側は50名、チカソー側は25名の犠牲を出した。この襲撃を許可したフランス領ルイジアナ総督ジャン=バティスト・ル・モワイヤン・ド・ビエンヴィユは、後日パリに召喚された。
- アイルランドの詩人で作家のジョナサン・スウィフトが、「不安定な精神と記憶力」(痴呆)とする勧告を裁判所から受ける。スウィフトは3年後の1745年に亡くなるまで、監禁状態での自宅療養を余儀なくされた[38]。
- 8月19日 -
- オーストリア継承戦争:イギリスの地中海艦隊、スペイン・ナポリ軍によるロンバルディア侵攻を阻止[4]。代将ウィリアム・マーティンが戦列艦3隻、フリゲート2隻、臼砲艦4隻を率いてナポリに入港、ナポリ王カルロ7世(のちのスペイン王カルロス3世)に、30分以内にスペイン軍の編成からナポリの兵を除くことを迫るメッセージを送る。ドン・カルロスはこの案を受け入れた。これによって、スペインがイタリアを足がかりとするという、イギリスにとっての脅威を打ち消すことになった[39]。

『狂信、あるいは預言者マホメットについて』 1743年版 - パリのコメディ・フランセーズ(サン=ジェルマン=デ=プレ)でヴォルテールの演劇『狂信、あるいは預言者マホメットについて』初演[5][1]。劇場はフランスの貴族で満席となった[40]。
- オーストリア継承戦争:イギリスの地中海艦隊、スペイン・ナポリ軍によるロンバルディア侵攻を阻止[4]。代将ウィリアム・マーティンが戦列艦3隻、フリゲート2隻、臼砲艦4隻を率いてナポリに入港、ナポリ王カルロ7世(のちのスペイン王カルロス3世)に、30分以内にスペイン軍の編成からナポリの兵を除くことを迫るメッセージを送る。ドン・カルロスはこの案を受け入れた。これによって、スペインがイタリアを足がかりとするという、イギリスにとっての脅威を打ち消すことになった[39]。
- 8月20日 - ハット党戦争:ヘルシングフォシュ(現在のヘルシンキ)でスウェーデン軍の兵17,000人がロシア帝国に投降、これによって戦争が事実上終結[41]。
- 8月27日 - ジョージ・アンソンの世界周航:提督ジョージ・アンソンの戦列艦センチュリオンが、船内で病気が蔓延しながらもテニアン島(現アメリカの自治領)にたどり着く。これによって、アンソン一行は世界周航を続行できた[42]。
- 8月28日(寛保2年7月28日) - 五畿内で大風雨、三条大橋流出[15]。また、関東地方で暴風雨による大水害(寛保二年江戸洪水)、江戸に水死者多数[43][4][15]。溺死者3,800人とも[24]。
- 8月30日 - ライプツィヒ近郊のクラインチョハー村で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの世俗カンタータ『わしらの新しいご領主に』(通称『農民カンタータ』)が初演される。
- 8月 -

ロイストン洞窟に描かれた壁画 "The Origins and Use of the Royston Cave"(1884年)から - イギリス、ハートフォードシャーでロイストン洞窟が再発見。
- 旧暦7月
- 9月1日(寛保2年8月2日) - 江戸本所・深川でなどで大洪水おこる[15]。
- 9月5日 - 大北方探検の生存者46人がペトロパブロフスク・カムチャツキーに帰還。ベーリング海峡で座礁してから10ヶ月後のことであった。彼らは同年8月21日に聖ピョートル号の残骸から新しく船を完成させていた[44]。→「ヴィトゥス・ベーリング § 2度目の探検」も参照
- 9月8日(寛保2年8月9日) - 関東地方で大風雨・水害[15]。
- 旧暦8月 - 陸奥信夫郡・伊達郡の120ヶ村で騒動[15]。
- 9月16日 - ロンドンで捨子養育院が着工[45]。設計はセオドア・ジェイコブセン。西棟は1745年に、東棟は1752年に完成。
10月-12月
[編集]
- 10月5日 -
- 第5代フエンクララ伯爵ペドロ・セブリアン・イ・アウグスティンがベラクルスに到着、ヌエバ・エスパーニャ副王に就任する[46]。
- ペンシルベニア植民地総督のジョージ・トマスが、ランカスター郡、ならびにブルーマウンテン以西に定住することを禁止[47]。
- 10月6日(寛保2年9月8日) - 広島藩領安芸高田郡杉原村で強訴[15]。
- 10月12日(寛保2年9月14日) - 幕府、諸大名に関東の水害被災地での米穀輸送・販売を許可[33]。
- 旧暦9月 -
- 旧暦10月 - 幕府、魚・野菜などの販売時期について触をだす。貞享・元禄につづき三度目[33]。
- 11月13日 - デンマーク王立科学文学アカデミー創立。
- 11月18日 -
- 旧暦11月 - 幕府、銅の産出量減少のため銅輸出額を制限(貿易半減令)[4][13]。
- 12月12日(寛保2年11月16日) - 納戸番下吏・井出勘右衛門が死刑。納戸から正平革を盗むなどの罪[15]。
- 12月 - 清のオルタイ、子の罪により処分が討議される[4]。
- 旧暦12月 - 武蔵荒川筋で川普請夫役反対騒動おこる[15]。*
誕生
[編集]→「Category:1742年生」も参照

- 3月14日 - アーガー・モハンマド・シャー[50]、ガージャール朝初代シャー(+ 1797年)
- 4月14日(寛保2年3月10日) - 井上士朗[51]、俳人、医者(+ 1812年)
- 5月23日(寛保2年4月19日) - 伊達重村[52]、第7代仙台藩主(+ 1796年)
- 6月26日 - アーサー・ミドルトン[53]、アメリカ独立宣言署名者(+ 1787年)
- 7月1日 - ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク[54]、ドイツの実験物理学者、風刺家(+ 1799年)
- 8月7日 - ナサニエル・グリーン[55]、アメリカ独立戦争における大陸軍の少将(+ 1786年)
- 8月14日 - ピウス7世[56]、第251代ローマ教皇(+ 1823年)
- 9月14日 - ジェイムズ・ウィルソン[57]、アメリカ独立宣言署名者・アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事(+ 1798年)
- 9月19日か20日 - ロシャンブロワーズ・キュキュロン・シカール[58]、ろう教育者(+ 1822年)
- 12月6日 - ニコラ・ルブラン[59]、フランスの化学者、ルブラン法を発明(+ 1806年)
- 12月8日 - ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ、フランス帝国元帥(+ 1819年)
- 12月9日 - カール・ヴィルヘルム・シェーレ[60]、スウェーデンの化学者、酸素・塩素・フッ化水素・シアン化水素などを発見(+ 1786年)
- 12月16日 - ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル[61]、プロイセン陸軍の元帥(+ 1819年)
死去
[編集]
→「Category:1742年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 松岡 2024, p. 175.
- 1 2 3 4 5 6 小成 1998, p. 219.
- 1 2 3 4 5 DK 2013, p. 249.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 石橋ほか 1992, p. 372.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 小成 1998, p. 221.
- ↑ “日露交渉史関連年表 土田真紀編 ロシア宮廷美術展図録”. www.bunka.pref.mie.lg.jp. 2024年3月22日閲覧。
- 1 2 3 4 松岡 2024, p. 174.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 小成 1998, p. 218.
- 1 2 小成 1998, pp. 218, 220.
- ↑ East encounters West by Fatma Müge Göçek p.85
- 1 2 3 4 山崎&笠原 1979, p. 293.
- ↑ 梶山 1984, p. 4.
- 1 2 3 小成 1998, p. 220.
- ↑ 武田 2000, p. 47.
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- ↑ Williams, Hywel (2005). Cassell's Chronology of World History. London: Weidenfeld & Nicolson. p. 309. ISBN 0-304-35730-8. https://archive.org/details/cassellschronolo0000will/page/309
- 1 2 3 歴史学研究会 2017, p. 196.
- 1 2 3 歴史学研究会 2017, p. 197.
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