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中嶋聡

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(2024年8月)

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中嶋 聡

2023年10月21日 京セラドーム大阪

基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県北秋田郡鷹巣町(現:北秋田市
生年月日 1969年3月27日(57歳)
身長
体重
182 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1986年 ドラフト3位
初出場 1987年10月18日
最終出場 2015年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴

監督・コーチ歴

  • 北海道日本ハムファイターズ (2007 - 2018)
  • オリックス・バファローズ (2019 - 2024)

この表について

中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 - )は、秋田県北秋田郡鷹巣町(現:北秋田市)出身の元プロ野球選手捕手、右投右打)、プロ野球監督オリックス・バファローズの第29代監督を務めていた。

1987年阪急ブレーブスへ入団してから、西武ライオンズ横浜ベイスターズ北海道日本ハムファイターズでプレー。日本ハム時代の2007年から2015年まではバッテリーコーチを兼務していた。

2015年に現役選手としての一軍実働年数が29年に到達し、工藤公康と並ぶNPB最長記録を達成。

愛称は「サメ[1]。妻はモデル中嶋愛漫画家制野秀一義父にあたる。

経歴

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プロ入り前

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鷹巣中学校卒業後に進学した秋田県立鷹巣農林高校では、1985年秋季東北大会県予選準々決勝に進むが秋田高に敗退。翌1986年夏の甲子園県予選も準々決勝で横手高に敗れる。同年のNPBドラフト会議阪急ブレーブスから3位指名を受け、入団。

阪急・オリックス時代

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1988年10月23日[注 1]ダブルヘッダーで開催された阪急としての西宮球場最終戦(対ロッテ26回戦)にて、ダメ押しとなる3点本塁打[注 2]を放ち、同郷である山田久志の引退試合に花を添えた。

1989年からは背番号27を着用[2]。球団名が「オリックス・ブレーブス」に変わった同年は藤田浩雅の不調により正捕手の座を掴み、高卒3年目・20歳にしてゴールデングラブ賞を受賞。球界随一の強肩もさることながら打撃センスにも優れ、俊足で盗塁も果敢に挑戦し走攻守すべての面を持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた[3]

1990年10月6日の対ロッテオリオンズ戦では、満塁からインフィールドフライを故意に落球。打者には落球の有無にかかわらず審判から自動的にアウトを宣告されたため、本塁における三塁走者のフォースアウトで併殺を狙ったが、インフィールドフライの扱いに対する解釈の誤りからロッテに得点を許してしまった[注 3]門田博光に大きく振り抜くコツを伝授され同年2桁となる12本塁打という急成長を遂げた[4]

1991年以降も正捕手の座を維持していたが、1990年代の中盤以降は打撃成績が徐々に低迷。仰木彬が監督を務めていた時期には、藤田とのトレードで読売ジャイアンツ(巨人)から加入した高田誠や、若手の三輪隆と併用されていた。そのため、のちに実働29年のNPB最多タイ記録を樹立するものの、シーズンで規定打席に到達したのは1991年と1992年の2度のみとなった。

1995年には佐藤義則ノーヒットノーラン(当時のNPB公式戦史上最年長記録)[3]や11年ぶりのパシフィック・リーグ優勝に貢献した。日本シリーズでも第1戦から先発マスクを被ったが、3連敗したことで第4戦から先発を外れ[5]、敗退後、『ニュースステーション』に出演した仰木彬からは名指しでインサイドワークを批判された。

1996年も仰木の下でリーグ連覇と19年ぶりの日本シリーズ制覇を経験したが、シーズン後半は高田誠が主戦捕手となり、1997年も三輪隆の後塵を拝する形になった。

西武時代

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1997年シーズンオフにフリーエージェント宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明[3]。複数の球団と接触し、アナハイム・エンゼルスの入団テストを受けた[3]。一時は入団が決まりかけたが、エンゼルス側が提示した条件が、3番手捕手としてのマイナー契約であったため、メジャーリーグ移籍を断念。国内球団の移籍に的を絞り、西武ライオンズ日本ハムファイターズが中嶋の獲得に乗り出したが、最終的に西武へ移籍[6]。移籍当初は背番号5を着用していた[7]

1998年日本シリーズでは不調のベテラン伊東勤に代わり一時的な活躍こそしたが、長年西武一筋で信頼感のある伊東から正捕手の座を奪うことはできなかった。

1999年松坂大輔専用の捕手として起用される[注 4]ことで出場機会を得たが、2001年以降は松坂登板時も伊東がマスクを被る機会が増えた。打撃の低迷に加え、西武が若手捕手育成の方針を取ったため、次第に出場機会が減っていった。

2000年和田一浩背番号を交換した(中嶋:5→22、和田:22→5)[8]が、中嶋によると「22の方が捕手のイメージが強い」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという[9]。また、同年5月20日に長野オリンピックスタジアムで初めて行われた古巣オリックス戦で、2回裏にテリー・ブロウズから同スタジアムの公式戦第1号本塁打を左翼スタンドに放っている。

2002年、大半を二軍で過ごし、オフに富岡久貴と共に石井義人細見和史との2対2の交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍[10]。横浜では背番号35を着用していた[11]

横浜時代

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2003年、前年に正捕手だった谷繁元信がFAで中日へ移籍しており、若手の相川亮二、前年に谷繁と入れ替わりで中日から移籍した中村武志の正捕手争いに自身が参戦する形でハイレベルなポジション争いが期待され、開幕戦では先発マスクを被ったが、故障や打撃不振などで結果を残せなかった。中村の復調や相川の台頭もあり、オフに構想外となり、金銭トレードで北海道日本ハムファイターズへ移籍[12]。移籍当初の背番号は32[2]。1997年のFA時から6年越しの日本ハム入団となった[注 5]

日本ハム時代

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2004年は、9月に横浜球団のキャンペーンガールをしていたモデルの制野愛(現在は中嶋愛)と結婚。

2005年は、当初3番手捕手のはずだったが、正捕手髙橋信二の度重なる故障と實松一成の不調もあり、捕手でチーム最多の出場機会を得た。

2006年は、先発出場はわずか2試合と激減したが、守護神マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を獲得。以後、マイケルが巨人へ移籍する2008年シーズン終了までマイケルの専属捕手のような状態だった。結局、2006年は捕手としてはチーム最多の79試合に出場し、チームのリーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献した。また、6月19日の対阪神タイガース戦の試合前に行われたスピードガンコンテストで球速146km/hを記録し、中嶋より遥かに若い阪神・日本ハムの選手達を抑え優勝。強肩健在ぶりを大いにアピールした[注 6]

2007年は、選手と一軍バッテリーコーチを兼任。以後は選手としての一軍登録抹消時はコーチ専任で一軍に帯同した。開幕直後に一軍登録を抹消されるも、調子の上がらないマイケルをサポートするため再度一軍へ昇格し、そのまま最後まで一軍で抑え捕手として活躍。この年唯一放った安打は、9月15日の対ソフトバンク戦で放ったダメ押しの3ランだった。

2008年は、シーズン後半からではあるが、再度一軍へ昇格、抑え捕手を務めた。また、不調に陥った多田野数人をサポートするために1試合のみではあるが、2年ぶりに先発出場を果たした。

2009年は、大野奨太の入団とマイケルの巨人への移籍があって、捕手は鶴岡慎也と大野の併用が多くなったために出場機会がなかった。7月18日に一度登録されるも、試合の雨天中止により、出場しないまま登録抹消された。しかし、大野がインフルエンザに感染したため8月16日に急遽一軍登録され、その日の対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)の9回からマスクを被りシーズン初出場を果たした。また、8月21日の対ソフトバンク戦ではダルビッシュ有の先発捕手として出場し自身も1安打を放ったが、結果としてこれが公式戦における現役生活最後の安打となった。同年の日本シリーズでもマスクを被った。

2010年は、4月2日に一軍登録され、対西武戦(札幌ドーム)に7回途中から出場し、実働年数が24年となった。これは歴代3位タイで、捕手では野村克也の26年に次ぎ、単独2位の年数である。4月23日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦ではバディ・カーライルの先発捕手として出場した。

2011年からは、背番号をオリックス時代にも着用していた27へ変更[2]。鶴岡が開幕直前に離脱したこともあり、2007年以来4年ぶりに開幕戦から選手として一軍登録される。4月13日の西武2回戦(札幌ドーム)に9回表から出場、実働年数が25年となった。

北海道日本ハムファイターズ選手兼バッテリーコーチ時代(2012年)

2012年は、5月9日に一軍登録され、5月12日の西武7回戦(函館オーシャンスタジアム)で9回表に守備で出場し、実働年数が26年となり、野村、山本昌中日)と並び、歴代2位(野手では1位)の記録となった[13]

2013年は、9月28日の対オリックス戦(京セラドーム)で、この年初めて一軍公式戦に出場。野手としてのNPB一軍実働年数最多記録(27年)を達成した[14]

2014年は、6月27日の対楽天戦(札幌ドーム)8回表から捕手として出場。この年唯一の一軍公式戦出場であったが、野手としてのNPB一軍実働年数記録を28年に更新するとともにパシフィック・リーグ公式戦での実働年数記録(27年)を達成した[15]

2015年は、4月15日の対ロッテ戦(札幌ドーム)9回表に、捕手としてこの年初めて一軍公式戦に出場。工藤公康の持つ(投手を含めての)NPB一軍実働年数記録(29年)に並んだ[16]。その後は事実上バッテリーコーチに専念していたが、10月1日に現役引退を発表。同日の対ロッテ23回戦(札幌ドーム)を中嶋の引退試合として開催した[17]。その一方で、オフには自身の意向でバッテリーコーチも退任した[18]。11月2日に引退会見を実施[19]。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された[20]

現役引退後

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2016年、日本ハムのチーム統括本部としてゼネラルマネジャー特別補佐に就任し、日本ハムの業務提携球団に当たるMLBサンディエゴ・パドレスに派遣[21]。アメリカ滞在中には、コーチとしてマイナーリーグの傘下球団を巡回する一方で、外国人選手のスカウティングにも携わっていた[22]

2018年、日本ハムの一軍バッテリー兼作戦コーチとして3年ぶりに現場へ復帰した[23]。背番号は72[24]。シーズン終了後の10月19日に退団。

2019年オリックス・バファローズの二軍監督に就任。前身のブルーウェーブ時代以来22年ぶりの古巣復帰となった。背番号は78[25]。ブルーウェーブ時代にバッテリーを組んでいた小林宏二軍投手コーチと共に、榊原翼K-鈴木などの投手を一軍に定着させた[26]

オリックス監督時代

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2020年、一軍監督の西村徳文が8月20日の対西武戦(京セラドーム大阪)終了後に辞任したことを受けて、翌21日から一軍監督代行に就任[27][28]。この異動に伴って、二軍投手コーチの小林が二軍監督代行を務めている[27]。監督代行就任直後には打撃不振に喘いでいた2年目の中川圭太を4番として起用したほか、既にシーズン最下位が決まっていた終盤には高卒ルーキーの宮城大弥紅林弘太郎にも積極的に一軍で経験を積ませた。シーズン終了後の11月12日、正式に一軍監督へ就任した[29]

2021年、二軍暮らしが続いていた杉本裕太郎の長打力を買って4番に抜擢し、宗佑磨の守備センスを見抜いて外野から三塁にコンバート。小田裕也には小技を徹底的に磨かせるなど個々の長所を組み合わせる戦法を貫いた結果、杉本が32本塁打で自身初の本塁打王、宗がゴールデングラブ賞を受賞。また監督代行時代の前年に積極起用した2年目の宮城が13勝をあげて新人王、紅林も19歳にして二桁本塁打を放つ活躍をみせた[30]セ・パ交流戦では2010年以来11年ぶりの優勝を達成し、7月に2014年以来7年ぶりの単独首位へ浮上。一時は2位のロッテに優勝マジックが点灯したものの、10月25日の対楽天戦に勝利し首位で全日程を終了。その後、10月27日に2位のロッテが敗れたため、監督就任初年度にして自身が現役だった1996年以来25年ぶりのリーグ優勝が決定。前年まで2年連続最下位、6年連続Bクラスという低迷からの劇的な快挙となった[31]。阪急・オリックスの球団史上、チームで選手としてプレー経験のある監督がリーグ優勝を達成するのは中嶋が初となる[32][注 7]。ロッテとのクライマックスシリーズを3勝1分で突破して迎えた日本シリーズはオリックスと同様に2年連続最下位からリーグ優勝した東京ヤクルトスワローズに2勝4敗で敗れ、日本一を逃した。

2022年は開幕から貧打に苦しみ、4月10日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では佐々木朗希(当時20歳)と松川虎生(当時18歳)のバッテリーにNPB史上28年ぶり、21世紀ならびに令和では初めてかつギネス世界記録となる「プロ野球史上最年少(合計年齢)のバッテリーによる完全試合」を喫した[33]。しかし、宇田川優希山﨑颯一郎ジェイコブ・ワゲスパックらが勝利の方程式に定着した夏場以降は調子を上げていき、2位ながら優勝マジックを点灯させていたソフトバンクと10月2日のシーズン最終戦まで優勝争いを繰り広げ結果的に勝敗数・勝率で並んだものの、規定により直接対決で勝ち越していたオリックスにリーグ優勝の権利が与えられ、球団史上26年ぶりのパ・リーグ連覇を果たした。その後、2年連続で同じカードとなった日本シリーズではヤクルトを4勝2敗1分けで下し、同じく26年ぶりの日本一を達成[34]。同年オフに正力松太郎賞を受賞した[35][36]

2023年、主軸を担っていた吉田正尚ボストン・レッドソックスへ移籍し戦力低下が懸念されたが、西武からFAで森友哉を獲得し、打力を買われて捕手から内野手にコンバートされた頓宮裕真が吉田に代わって中軸へ定着。シーズン開幕前に第5回WBC日本代表へ選出された山本や宮城らが開幕カードのメンバーから外れるなか、プロ入り2年間で一軍登板がなかった高卒3年目の山下舜平大を開幕投手に抜擢する大胆な采配を披露した。シーズンが始まると、最終盤までもつれた過去2年間とは異なり序盤から首位を快走。自身の監督就任3年目にして初となる優勝マジックを点灯させ、阪急時代の1978年以来45年ぶり、球団名がオリックスとなってからは初のパ・リーグ3連覇に導いた[37]阪神との『関西ダービー』となった日本シリーズでは3勝4敗で惜しくも連覇を逃した。

2024年、絶対的エースだった山本由伸ポスティングシステムを行使してロサンゼルス・ドジャースへ、左の先発要員だった山﨑福也がFAで日本ハムへ移籍。広島からFAで西川龍馬を獲得するものの、前年の吉田と合わせ投打の軸がチームを去ったことに加え前年に首位打者を獲得した頓宮ら野手陣の不調もあって苦戦を強いられ、4年ぶりのBクラスとなる5位でシーズンを終えた。GMの福良をはじめ球団から来季の続投を要請され回答を保留していたが、シーズン最終戦となった10月6日の対楽天戦(楽天生命パーク宮城)終了後に同年限りでの監督退任を発表した[38][39]。シーズンオフの11月、京セラドーム大阪で開催されたファン感謝デーイベントにサプライズゲストとして登場し、改めて退任の挨拶を行った。

オリックス監督退任後

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2025年、オリックス・バファローズのスペシャルアドバイザーに就任[40]。同時にJ SPORTSメジャーリーグ中継NHKの(ゲスト、NPB・MLB)野球解説者としても活動する。

人物

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アマチュア球界でも中嶋の強肩は知れ渡っており、最初に入団した阪急では高卒入団でありながら、1年目から一軍出場し、山田久志佐藤義則今井雄太郎といったベテラン投手陣の薫陶を受けた。

星野伸之は120km/h台の速球と80km/h台のスローカーブを武器にする投手で、1990年9月20日の対日本ハム戦(東京ドーム)で星野が田中幸雄に投じたすっぽ抜けたカーブを中嶋が右手で直接捕球し、星野を超える球速で返球したことで失笑が起こった[注 8]。ベンチに帰り星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ」と機嫌を悪くしていたが、中嶋は「ミットが届かなかったんです」と誤魔化し事態は収まった[41]

  • 星野は後に著書『真っ向勝負のスローカーブ』でこのときの“素手でキャッチ事件”を振り返り、“今となってはいい思い出である”と述べているほか、“中嶋はいい捕手だった”とも述べている。
  • この「素手キャッチ」は星野が投球練習をする時にもしばしば見られたことである。当時は「星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返す球の方が速い」とまで言われていた。
  • オリックス時代にはプロ野球選手を最初にアイドル的に扱った雑誌・プロ野球aiに特集記事が度々掲載されるほどであった。

普段は近視のためコンタクトレンズを着用しているが、2005年シーズンの一時期だけ眼鏡を掛けてプレーしていた。

2018年限りで北海道日本ハムファイターズを退団したが、その発表の日付が10月19日であった。日本ハム球団によれば「阪急ブレーブスがオリックスに身売りすることが発表された1988年10月19日から30年を迎え、最後の阪急戦士だった中嶋が阪急を引き継ぐオリックスへの復帰を手助けするためにこの日に発表した」とのことである[42]

2007年の一軍バッテリーコーチ就任以降選手登録はされていたものの、ほとんどコーチ専任であった。というのも、一軍の本拠地(札幌)と二軍の本拠地(鎌ケ谷)が地理的にかけ離れており、たとえ一軍捕手にアクシデントがあっても二軍から捕手を緊急で一軍昇格させることが難しい状況であった。そこで、一軍に常時帯同している中嶋は緊急昇格に対応できる「保険」の役割を担っていた。 上記の理由とともに、中嶋の守備力がレギュラー捕手陣と遜色なく、特にコントロールの良さは市川友也、近藤よりも優れてたからである[43]

ただし、本人は体力的には既に限界であったが中々引退を認めて貰えず、2015年に翌2016年に北海道新幹線が道南まで開通することが決まり一軍・二軍間の交通面が改善されたことや、捕手登録されていた近藤健介が外野手へコンバートされたことで近藤の緊急時の捕手起用が可能となったことにより、現役生活から解放されることとなった。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1987 阪急
オリックス
2220000000000000020.000.000.000.000
1988 7414513572481240141132302341.178.204.296.501
1989 121373320317592510326221513502676.234.313.322.635
1990 95318286468194121343982821903624.283.332.469.801
1991 12947143049109223121734845713003853.253.306.402.708
1992 11540834244851306116335416537286815.249.332.339.671
1993 5517414872230025411801602415.149.241.169.410
1994 3710794113060448190022900232.319.371.511.882
1995 101345303338113131053301723310618.267.337.347.684
1996 9829225717576116824101231802594.222.275.265.540
1997 731951691537602491422901403444.219.290.290.580
1998 西武 601241068254123770360705244.236.314.349.663
1999 7219315510304003416211252001318.194.282.219.501
2000 7821718219436025526001331702337.236.304.302.606
2001 651541237256013414011521410344.203.281.276.557
2002 4985747121011621030701222.162.244.216.460
2003 横浜 1960564121001330010201102.214.254.232.486
2004 日本ハム 3972664133001670031200172.197.217.242.460
2005 7918617183240139110071700384.187.218.228.446
2006 7930290620085000000161.207.233.276.509
2007 6015151100143000000050.067.067.267.333
2008 22441300031000000000.750.750.7501.500
2009 3431100010011000010.333.333.333.667
2010 7110000000000000010.000.000.000.000
2011 10000000000000000000----------------
2012 3000000000000000000----------------
2013 2220000000000000000.000.000.000.000
2014 1000000000000000000----------------
2015 2000000000000000000----------------
通算:29年 1550397734733308041261355112134927241483029043676886.232.295.323.618
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

年度別守備成績

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捕手











1987 阪急
オリックス
2400001.000000----
1988 7426628435.987301713.433
1989 120619589136.987876225.287
1990 9452743868.986594118.305
1991 12873977101111.988785523.295
1992 10459949564.992644123.359
1993 5530833312.991372710.270
1994 2815418142.99427207.259
1995 9661159774.990694623.333
1996 9750240231.996635013.206
1997 6631337940.975674918.269
1998 西武 54217220111.00019811.579
1999 7237921262.995291712.414
2000 7241339365.993463016.348
2001 6432320141.997291811.379
2002 48195140111.0001165.455
2003 横浜 1912140111.00016151.063
2004 日本ハム 3711813104.99218144.222
2005 7935626224.995443212.273
2006 7814170101.0001082.200
2007 607620011.000330.000
2008 222100001.000110.000
2009 3720001.000220.000
2010 7800001.000000----
2011 101200011.000000----
2012 3500001.000110.000
2013 2210011.000110.000
2014 100000----000----
2015 2100001.000000----
通算 14977037613678265.991811564247.305

表彰

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記録

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初記録
節目の記録
その他の記録

通算監督成績

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2020 オリックス ※6位6729353.45327.077.2473.9751歳
2021 1位143705518.560---133.2473.3152歳
2022 1位14376652.539---89.2462.8453歳
2023 1位14386534.619---109.2502.7354歳
2024 5位14363773.45028.071.2382.8255歳
通算:5年 62731628130.529Aクラス3回、Bクラス2回
※1 2020年、西村徳文監督が辞任した後、8月21日からシーズン終了まで監督代行
※2 2022年、新型コロナウイルス陽性判定による隔離療養のため8月26日から9月1日まで欠場。監督代行は水本勝己(3勝3敗)
※3 2023年、体調不良のため6月13日から6月22日まで欠場。監督代行は水本勝己(5勝1敗)
※4 通算成績は、欠場した12試合(8勝4敗)は含まない
※5 太字は日本一

背番号

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  • 53(1987年 - 1988年)
  • 27(1989年[2] - 1997年、2011年[2] - 2015年)
  • 5(1998年[7] - 1999年)
  • 22(2000年[8] - 2002年)
  • 35(2003年[11]
  • 32(2004年[2] - 2010年)
  • 72(2018年[24]
  • 78(2019年[25] - 2024年)

脚注

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注釈

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  1. 同日はナゴヤ球場にて中日×西武の日本シリーズ第2戦が開催されていたが、同年は雨天中止による順延が多数発生したため公式戦最終日が日本シリーズ開催期間中の同日までずれ込んでいた。
  2. この本塁打が阪急球団最後の本塁打。同時に昭和時代最後の公式戦本塁打となった。
  3. インフィールドフライが宣告された時点で打者走者は自動的にアウトとなるため、他の走者はフォースの状態ではなくなる。よって、満塁の場面でも本塁に触れただけでは三塁走者をアウトには出来ない。同様のミスは、達川光男広島)も1991年に犯している。
  4. その一方で、当時西武のエースだった西口文也とは逆にバッテリーを組む機会が全くといっていいほどなかった(西口が投げる試合ではほとんど伊東がマスクを被っていた)。
  5. 入団発表時のみ、1993年から2003年までの東京本拠地時代最後のユニフォームを着用した
  6. 1995年のオールスターゲームでも146km/hを記録している。
  7. 他球団の監督を含めると、阪神タイガースの監督として2005年にセントラル・リーグ優勝を果たした岡田彰布に次いで2人目。
  8. 2015年10月1日の引退試合後に行われた引退セレモニーでも中嶋の軌跡を振り返る映像でそのシーンが流され場内は爆笑。本人は苦笑していた。

出典

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  1. 【番記者プロデュース】誰も知らない!?素顔のオリックス・中嶋監督、4人の証言者が明かす カラオケでは歌詞もメロディーも完璧」『サンケイスポーツ』2021年2月27日。2021年6月17日閲覧
  2. 1 2 3 4 5 6 日本ハムの背番号「27」大宮、中嶋、大野らチームの要捕手中心」『日刊スポーツ』2021年4月15日。2025年9月25日閲覧
  3. 1 2 3 4 【レジェンドの決断 中嶋聡2】強肩と経験…戦力であり続けた29年」『スポーツニッポン』2016年1月22日。2016年1月22日閲覧
  4. ベースボールマガジン 別冊新緑号(2023年5月号:門田博光と南海ホークス)、58頁
  5. INC, SANKEI DIGITAL (2021年11月18日). 【日本シリーズ 1995秘話】「だまし屋と嫌がらせ屋の対決」 開幕前日、野村・仰木両監督による会議は1時間の大舌戦”. zakⅡ. 2026年1月15日閲覧。
  6. 【12月6日】1999年(平11) 良妻・中嶋聡、“松坂査定”で年俸4%ダウンで済んだ」『スポーツニッポン』。2008年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月7日閲覧
  7. 1 2 背番号の歴史 00~9」『埼玉西武ライオンズ公式サイト』。2025年9月25日閲覧
  8. 1 2 背番号の歴史 20~29」『埼玉西武ライオンズ公式サイト』。2025年9月25日閲覧
  9. 【背番号物語】西武「#5」辻の系譜を「気分一新で」着けた和田。最長は名将として大成した二塁手 - 週刊ベースボールONLINE、2021年4月18日配信、ベースボール・マガジン社
  10. 「西武・中島らを横浜へトレード 2対2の交換で」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2002年(平成14年)11月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  11. 1 2 萌結「横浜ベイスターズ 中嶋聡 応援歌」『YouTube』2020年8月25日。2025年9月25日閲覧
  12. 「日本ハムと横浜でトレード」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)10月15日付朝刊、19面(スポーツ面)。
  13. 9回に今季初マスク…ハム中嶋が実働26年目に到達」『スポーツニッポン』2012年5月12日。2022年1月6日閲覧
  14. 中嶋が野手最長の実働27年 ノムさん抜くも「深い感想ない」」『スポーツニッポン』2013年9月28日。2022年1月6日閲覧
  15. ハム中嶋兼任コーチ偉大な1軍実働28年」『日刊スポーツ』2014年6月28日。2022年1月6日閲覧
  16. ハム中嶋がプロ野球タイ実働29年「感慨なんて」」『日刊スポーツ』2015年4月15日。2022年1月6日閲覧
  17. 中嶋聡バッテリーコーチ兼捕手が 現役を引退」『北海道日本ハムファイターズ』2015年10月1日。2022年1月6日閲覧
  18. 引退の日本ハム中嶋、兼任バッテリーコーチも退任へ」『日刊スポーツ』2015年10月12日。2021年6月16日閲覧
  19. 引退の日本ハム・中嶋聡氏がGM特別補佐就任 MLBパドレスにコーチ留学へ」『Full-Count』2015年11月2日。2024年1月31日閲覧
  20. 任意引退選手 | 2015年度公示」『NPB.jp 日本野球機構』。2024年1月31日閲覧
  21. 中嶋聡氏がチーム統轄本部GM特別補佐に就任」『北海道日本ハムファイターズ』2015年11月2日。2022年1月6日閲覧
  22. 日本ハム中嶋氏がフロント転身 GM付きで米国滞在」『日刊スポーツ』2015年10月31日。2022年1月6日閲覧
  23. コーチ就任のお知らせ」『北海道日本ハムファイターズ』2017年10月31日。2022年1月6日閲覧
  24. 1 2 一軍コーチングスタッフ決定のお知らせ」『北海道日本ハムファイターズ公式サイト』2017年11月7日。2025年9月25日閲覧
  25. 1 2 新コーチングスタッフ決定のお知らせ」『オリックス・バファローズ』2018年10月22日。2018年10月22日閲覧
  26. オリックス、コーチ陣を大幅入れ替え!高山投手コーチがヘッド昇格」『デイリースポーツ』2019年9月30日。2024年1月31日閲覧
  27. 1 2 オリックス・西村監督が辞任 後任は中嶋2軍監督!!コーチ陣刷新」『サンケイスポーツ』産経デジタル、2020年8月20日。2020年8月21日閲覧
  28. オリックス 西村監督、事実上の解任…コーチ陣大幅入れ替え、福良GM「まだ巻き返せるという判断」」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2020年8月21日。2020年8月21日閲覧
  29. 中嶋聡新監督就任のお知らせ」『オリックス・バファローズ』2020年11月12日。2020年11月12日閲覧
  30. 「秘密主義」「フロント介入拒否」…オリックス・中嶋聡監督が“オレ流”を貫き通せた理由」『週刊文春』2021年11月20日。2021年11月20日閲覧
  31. 優勝オリックス・中嶋監督、選手の底力引き出した魔法の言葉 名将の下で学んだ手腕で育成と勝利両立しチーム再建」『サンケイスポーツ』2021年10月28日。2021年10月28日閲覧
  32. データで見たオリックスの強さ 防御率1、2位の由伸&宮城 ともに23歳以下は85年のあのコンビ以来」『スポーツニッポン』2021年10月27日。2021年10月28日閲覧
  33. 佐々木朗&松川の完全試合が「ギネス世界記録」に認定 最年少バッテリー&連続13K”. full-count (2022年11月10日). 2026年5月31日閲覧。
  34. 【オリックス】日本一の優勝会見<1>中嶋聡監督「感動的なことを言えれば良いんでしょうけど、ないです」」『スポーツ報知』2022年10月31日。2022年11月8日閲覧
  35. 正力賞は中嶋聡監督(オリックス)が初受賞、特別賞に村上宗隆選手(東京ヤクルト)」『日本野球機構』2022年11月8日。2022年11月8日閲覧
  36. 正力賞のオリ・中嶋監督「いいのでしょうか、私で」 3冠王・村上、投手4冠・由伸を自ら“推す”」『スポニチアネックス』2022年11月8日。2022年11月8日閲覧
  37. 3連覇のオリックス・中嶋監督「最高です」名将の仲間入り 七回大逆転に「嘘ついたかなあと思った」と笑い誘う」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2023年9月20日。2023年9月20日閲覧
  38. 【オリックス】中嶋聡監督、電撃辞任 試合後に選手らに伝える 3連覇果たした名将がユニホーム脱ぐ - スポーツ報知 2024年10月6日
  39. 中嶋聡監督退任について」『オリックス・バファローズ』2024年10月6日。2024年10月6日閲覧
  40. 中嶋聡前監督 スペシャルアドバイザー就任のお知らせ」『オリックス・バファローズ』2025年1月24日。2025年2月6日閲覧
  41. 別冊宝島 プロ野球「絶対エース」の豪腕伝説より
  42. 高原寿夫「「最後の阪急戦士」中嶋コーチ退団10・19のワケ」『ニッカンスポーツ・コム』日刊スポーツ、2018年10月26日。2018年10月26日閲覧
  43. 最後の阪急戦士・中嶋聡は「史上最も動ける46歳の捕手」だった」『BASEBALL KING』2015年10月19日。2025年1月30日閲覧

関連項目

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外部リンク

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オリックス・バファローズ監督 2020.08.21 - 2024

業績
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
特別賞
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
投手 - 捕手
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1950年代
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1980年代
1990年代
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2020年代